ちくわの穴

ちくわの穴から見た世界

E.H.カー『歴史とは何か』

「あの会社は歴史と伝統があって〜」、「歴史は暗記ばかりでつまらん」、「歴史女子、通称歴女が〜」など、日常でも歴史という言葉は多用される。
しかし、そもそも歴史とは何なのだろうか、勝手にそこにあるような自然物なのだろうか。
著者、カーはこれを否定する。
カーによれば、歴史とは、「現代の歴史家と過去の事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」なのである。
つまるところ、歴史家の解釈をふくまない客観的歴史的事実は存在せず、すべての歴史は、歴史家が解釈に基づき事実を作り上げ、そしてその事実により解釈を作り上げるという途切れることのないプロセスによって生まれたというのである。
要するに、歴史は自然に存在するのではなく、歴史家という個人によって、その解釈に基づいてつくられたものなのである。

そして、この歴史家の解釈というものは、決して社会から独立したものではない。
歴史家の解釈は、その歴史家が生きる時代の社会を反映したものとなる。
よって、歴史家によってつくりあげられる歴史もまた、その社会の産物であり、それを的確に反映したものとなるのである。

歴史上の因果関係を求める際にも、歴史家の解釈が大きな役割を果たす。
因果関係の決定に、主観的な個人の解釈などというものが影響を及ぼすなどとは思えないかもしれない。
しかし、こと歴史においては、原因と結果の関係にあるようなものごとが数多く存在する。
たとえば、ある人物、太郎君(仮)がコンビニに行こうとした際に、飲酒運転の車に轢かれたとする。
この場合、事故の原因は、太郎君がコンビニに行こうとしたことであろうか。
そう断言する人はおそらくいないだろう。
歴史上の因果関係を決定するときには、その原因が他の条件にも当てはめられるよう、有効に一般化でき、教訓が得られるかどうか、という目的の基準に照らし合わせているのである。
これは、歴史の相互作用、「現在の光に照らして過去の理解を進め、過去の光に照らして現在の理解を進める」という作用に基づいたものなのである。

また、因果関係が重要な役割を占めるのが科学であるが、しばしば歴史は科学でないと主張される。
カーはこれに異議を唱える。
歴史と科学は、その目的においてもその手法においても、共通の部分があるのである。
まず、その共通の目的とは、人間が置かれている環境についてより理解し、その環境への人間の支配力を増すことである。
そのためにさきほど述べたような、因果関係の決定の基準が役立つのである。
そして、共通の手法とは、問題を提起し、それに答を提示していくということである。
歴史とは、単なる事実の羅列ではないのである。

歴史は、昔あったことをただたくさん書いてあるだけでつまらない、などといった陳腐な文句にはまらず、「現在と過去との間の尽きることのない対話」に参加してみてはいかがだろうか。

高坂正堯『国際政治』

50年ほども前に書かれた本でありながら、国際政治の本質的な部分をえぐり取り、しかもそれを国際政治の知識を十分に持たない読者にも理解させる、凄まじい本。

国際政治はそもそもが複雑なものであるのに、それを単純な図式で捉えようとすることがうまくいくわけがない。
国際政治の理解は、その複雑な性格の理解に始まり、その理解に終わるとまで筆者は言う。
その複雑な理解の一端を見せてくれるのが本書である。

筆者、高坂正堯の冷静な分析的視点から語られる国際政治についての説明は、50年前に書かれたものとは思えないほどに、現在の理解にも役立つ。
この本では、軍備、経済、国際機構という三つの観点と平和との関連で、国際政治における国家の性格が明かされていく。
どの性格に着目しても、やはりそこには大きく、多様な困難がつきまとっている。
重要なのは、そのような困難を認識しつつ、それに冷静に立ち向かっていくことなのである。

『論理が伝わる世界標準の「議論の技術」』

ちょっと軽薄なタイトルにだまされることなかれ。
着実丁寧な議論の技術が網羅されている。

もちろん、自分が主体となって何か意見を主張するときにも役立つのだが、騙されないためにも必要な知識が数多くある。
たとえば立証責任。
これはある主張を持ち出した人が、その主張を裏付ける根拠を挙げなければならないということだ。
当然のように思えるかもしれないが、意外とこれが守られないことも多い。
あたかも当然のように主張されると、その根拠がないことに気づかないことも多いのだ。新聞の投書欄や社説なども酷い。
ある主張があったとき、まず「根拠はあるか?」と問うこと、これだけでグッと騙される確率は下がる。

しかし、根拠らしきものがあってもそこで満足してはならない。
その根拠の正当性もまた検証する必要がある。データはあるか?データはその根拠を本当に支えているか?
そこまでしてようやく主張の正当性を検討できる。

ここでは議論を受け取る側として役立つ技術を少し取り上げた。
もちろん本書中には、それ以外の主張の受け手として役立つ技術や、主張をするために役立つ技術が数多く載っている。
当たり前のようで、意識しないと実行できていないことが数多く載っている。
建設的な議論を行うために必須のスキルである。

ただ、やはりこの本でも触れられているように、日常多くのことは議論よりも習慣などで決まっている。
議論の方法を説いた本でありながら、議論万能論を声高に主張していないところも好感が持てる親切な本。
議論好きも議論嫌いも是非ご一読を。

なぜ僕が数学を学ぶのか

はじめに

以前の記事で述べましたが、僕は今中学数学から学び直している最中です。
高校数学については、高校でほぼ授業を聞いていなかったためほぼゼロからと言っていいレベルです。
そのため、このやり直し学習には非常に多くの時間がかかります。

そこまでの時間をかけてまで、文系である僕が学ぶことに意味はあるのか?とときに疑問を感じてしまうわけですね。
そこで今回、そのような疑問とそれについての一応の答えをこのブログで整理してみようかと。

1.数学を僕が学ぶことへの疑問

①時間がかかる

高校数学に関しては数学1Aからすでにほぼゼロからの学習になるわけです。
さらに出身高校では文系コースに進むと数学Bすら授業を受けないですんだので、完全にゼロからです。
数学的素養もないです。
なのでとても時間がかかるんですね。

その時間をもっと他のことに費やすべきではないか?という疑問ですね。
例えば英語、運動、読書、ビリーズブートキャンプ、、などこれらの活動を行う時間を数学に割くことになるわけですからね。

アメリカの経済学者、マンキューも「あるものの費用はそれを得るために放棄したものの価値である」と経済学の10大原理の一つとして述べています。
数学を学ぶことにともなう費用はビリーズブートキャンプで得られる筋肉の価値なんですね。

②「僕が」学ぶ必要があるのか?

現代社会は分業化社会なわけです。
僕がやらないこと、できないことは人に任せればいいのです。
僕には米は育てられません。数学だってできる奴に任せりゃええやん。

③そもそも数学使うの??

ぼくアホ文系やし、社会でも数学使うんかいね。
よくアホが「因数分解なんて社会出てから使わない」とか騒いでるじゃない。

2.疑問へのとりあえずのこたえ

①時間をかける価値がある

数学には貴重な大学時代の時間を費やす価値があるのではないか。
今数学を学んでおくことは、今バイトをしたり、ビリーズブートキャンプをしたり、合コンに出たりすることよりも、これからの人生にもっと多くの恵みをもたらしてくれるのではないか。

②人に任せるにしろ基礎知識は持つべき

そりゃ確かに高度に専門的な内容に関してまで、自分一人で様々な分野を網羅する必要はないですし、不可能ですよ。
それでも、基礎的な知識、能力は持っておくべきでしょう。
少なくとも高校で学ぶ内容くらいは持ち合わせておくべきだと考えます。

③数学使うよ

いや数学使いますよ。

数学ってある意味言語だと思うんです。
自然科学やさまざまな抽象的事象を取り扱うために用いる言語。
その言語についてのリテラシーを得ることは、より広い世界を見ることにつながっていくと思います。

また、単純に趣味としての数学ですね。
まだ学び始めて少ししか経っていませんが、楽しいですね数学。
実用性云々ではなく娯楽として。
誰にも文句は言わせねえぞ!

まとめ

数学を学ぶ目的、理由について再確認できました。
がんばるぞー。

2016年読んだ本 今年の10冊

はじめに

さて今日は大晦日である。

大晦日といえば、当ブログ毎年恒例のこの企画、「○○年 今年の10冊」である。

毎年恒例は予定である。前例はまだない。

これから始まるのである。

 

というわけで、軽いコメントとともに10冊挙げたい。

忘れていて漏れた本などをあとでこっそり足して10冊を超えるかもしれない。

 

でははじめていこうと思う。

なお、順番はあいうえお順であり、ランキング形式ではない。

 

10冊

1.『アイデアのつくり方』

 

アイデアのつくり方

アイデアのつくり方

 

広告業界で成功を収めた作者が、アイデアを生むためのノウハウを惜しげもなく公開する。

イデアなど天性の才能が生む、天から降りてくるようなものだと思っていた。

本書は、アイデアとは既存の要素の組み合わせであると喝破し、その組み合わせを生むための方法を紹介していく。

薄い本で、すぐに読める。また、その方法論も難しいものではない。

だが、それを自分のものにするには、何度も実践しアイデアを実際に生む経験を積み重ねる必要があるだろう。

イデアについての考え方を変えた本。

2.『エッセンシャル思考』

 

エッセンシャル思考 最少の時間で成果を最大にする

エッセンシャル思考 最少の時間で成果を最大にする

 

情報も、物も、予定も、思考も、気づけば大量に溢れている。

そのような状況では、物事は自ずと複雑に、混乱していく。

そうならないように、「より少なく、しかしより良く」を目指すことをすすめる。

判断基準を変えた本。

 

3.『自分の中に毒を持て』

 

 

自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間

自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間"を捨てられるか (青春文庫)

 

岡本太郎による人生論。

他人の人生論なんて読んでもなあと思っていたがその思いを壊してくれた。

これはとにかく読んでほしい。

僕はこの本をいつもカバンに入れて持ち歩いている。

人生についての考えを変えた本。

4.『知的複眼思考法』

 

知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ (講談社+α文庫)

知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ (講談社+α文庫)

 

考えるうえで基本となる本。

批判的思考、論理的思考の基本が詰まった本。

本の読み方、文章の書き方、考え方などの最重要な部分が学べる。

今年一番何度も読み返した本。

本の読み方、考え方を変えた本。

 

5.『脳が冴える15の習慣』

 

脳が冴える15の習慣―記憶・集中・思考力を高める (生活人新書)

脳が冴える15の習慣―記憶・集中・思考力を高める (生活人新書)

 

たしかに少々うさんくさいタイトルではある。

しかし侮らないでほしい。

脳神経外科専門医である筆者が医学的知識を活かしつつも、一般の人にわかりやすく脳を活用するための方法を説いてくれる実に学びの多い本である。

日々の生活の送り方を変えた本。

 

6.『プロカウンセラーの聞く技術』

 

プロカウンセラーの聞く技術

プロカウンセラーの聞く技術

 

傾聴について学べる。

徹底的に相手の話を聞くための方法を専門的に学べる。

人間はつい、聞くよりも話す方に向いてしまう。

それを乗り越えることができる。

人との接し方を変えた本。

 

7.『本を読む本』

 

本を読む本 (講談社学術文庫)

本を読む本 (講談社学術文庫)

 

読書法の原点、古典といえるような本。

さまざまな読書法の本が出ているが、この本の内容でまかなえるのではないかと思われるくらい、完成された読書法が語られる。

また、タイトルが実にいい。

読書への考え方、方法を変えた本。

 

8.『理科系の作文技術』

 

理科系の作文技術 (中公新書 (624))

理科系の作文技術 (中公新書 (624))

 

文章読本では定番として挙げられる。

論理的な文章の書き方の基本を学べる。

アタリマエのことが書かれているのだが、それを実行するのは結構難しい。

文章の書き方を変えた本。

 

9.『レトリック感覚』

 

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

 

レトリックについて学べる本。

だが、この本は、レトリックのみならず、ことば全体に対しての意識を高めてくれる。

ことばと、世界、自分の関係をとらえなおすことができる。

ことばについての感覚、認識を変えた本。

 

10.『論理トレーニング101題』

 

論理トレーニング101題

論理トレーニング101題

 

「解説書なんかいくら読んだって論理の力は鍛えられない。ただ、実技あるのみ」と述べる筆者。

まさに論理の実技である。

この101題を解ききったとき、あなたはこの本に出会う前とは論理に関してまるで別人になっていることだろう。

論理力を変えた本。

 

おわりに

今年は実によく本を読んだ一年であった。

自分にとって2016年は読書元年と言ってもいいほど読んだ。

 

きっとこの読書という営みとの出会いは自分の人生を変えただろう。

そういう意味合いも含めて、自分についての何かを変えた本10冊を選んでみた。

 

来年も、自分を変えてくれるような、そういう読書を積み重ねていきたいと思う。

この企画が本当に毎年恒例になることを祈る。

 

それではみなさん良いお年を!

レトリック第三の役割『レトリック感覚』

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

レトリックといって一般に浮かぶイメージはなんだろうか。
演説などで用いる説得の技術だろうか。
それとも文学を彩る装飾の技術だろうか。

本書は、レトリックにはそれら二つの役割の他にもう一つ、「発見的認識の造形」という役割があると主張する。

発見的認識の造形などと言われてもそれがなんだかさっぱりわからないだろう。
しかしそれは普段から自然に行っていることなのだ。

我々人間は何かを表現する時ことばを用いる。
表現したいものごとにちょうどいいことばがすでに存在していれば問題はない。

だが、しっくりくることばが見当たらないことも多い。
なぜなら、表現する対象となるもの、認識、感情は無限にあるのに対し、ことばは有限であるからだ。

そのとき我々はどのようにその物事を表現するのだろうか。
ここで効果を発揮するのがレトリック第三の役割、「発見的認識の造形」というわけである。

例えば、あなたがこのブログを「つまらない」と思ったとしよう。
しかしその「つまらない」は「つまらない」ということばで完全には言い表せないものであったとしよう。
そのときにレトリックを用いることで自分の感じたことを正確に伝えようとするのだ。
「このブログはまるで三流芸人のコントのようだ」などの直喩、「このブログはクソだ」などといった隠喩などによってである。

つまり、より正確に自分の認識を表現するためにレトリックを用いるのだ。

このようにレトリックにつきまとう「偽りの飾り物」、「詭弁の技術」などといったイメージを払拭し、「より正確に伝えるための方法」としてのレトリックを教えてくれるのが本書だ。

そのようなレトリック全般についての主張を、各レトリック(本書中ではことばのあや)についての説明を交えつつ行ってくれる本書は、日頃使うことばへの認識もまた新たなものへとしてくれるだろう。

書評記事

最近このブログに書評記事が増えているので、書評記事について思うことを散漫に書き連ねます。

書評記事の目的ってなにさ

ぼくが書評記事を書く理由は大きく言って「なんとなく」です。
このなんとなくは幾つかに分類されます。
以下にそのなんとなくを列記します。

なんとなく本を読んだきりだとまずい気がする

なんとなく本を読むだけだと何も残らないんじゃないかという不安があるのです。
・内容が記憶に残らないんじゃないか。
・読んでいて思ったことを忘れてしまうのではないか。
・学んだことをアウトプットしなければ本当に理解できているのかわからないんじゃないか。
このような不安を感じるのです。

なんとなくブログのネタになる

日々特に何かしているわけでもなく、その何でもない日をブログに書いたところで何かになるわけでもないじゃない?と思ってしまうのです。
そんな自分にとって、書評というのはなんとなく有益な気がするのです。
気がするだけですが。
そもそもなぜブログを書くかということにもつながっていきますね。
このブログの目的は自分が考えること、感じることなので他者にとって有益かはどうでもいいわけです。
そう考えると何でもない日を書くことにも意味があるのかもしれません。
というか考えるためのブログなら「なんとなく」などといった曖昧なものを許すなと。
いやその「なんとなく」を現にこうやってブログを書きながらなんとなくでなくしていっているのではないかと。
そう考えると大本の目標は果たせているのでノープロブレムですね、無問題。支離滅裂。

おわり

ごちゃごちゃと考えつつも書評記事に限らず色々書いていこうと思います。